第1回 「ギャルゲーの栄枯盛衰:前編」
第2回 「Leaf、Key、PCエロゲーブランドの勃興」
第3回 「PCエロゲーの家庭用移植が招く死に至る病」
第4回 「メディアミックスがギャルゲー業界を滅ぼす?」
さて、これまで4回に渡ってギャルゲーについて考察してきたこのシリーズも今回が最終回です。これまで様々な問題点を厳しく指摘してきましたが、最後はこれまでの考察の総論として、果たしてギャルゲーというゲームジャンルに未来(あした)があるのかどうか、について考察してみたいと思います。
何物にも偏らないニュートラルな思考形態を常に心がけている私が、何故ことさらギャルゲーの話になるとこうもネガティブになってしまうのか?というと、それは私がこのジャンルの素晴らしさを知る人間の1人であり、そして、このジャンルにかつて見た希望を捨てきれないからです。
私が初めてギャルゲーに出会ったのはPS2版の「ときメモ1」でした。当時の私は、ギャルゲーとエロゲーに強烈な偏見を持っていたのですが、そんな私でさえもKOしてしまう強烈な魅力が「ときメモ」にはありました。2次元とか仮想と現実がどうのこうの以前に、まずゲームとして理屈ぬきに面白かったからこそ、気が付けばいつの間にかキャラクターを好きになっていた。その時、私はこのジャンルの先に大きな夢を見てしまったのです。
しかし、「ときメモ」の成功がゲームとしてのものだけに止まらなくなり、ゲームを叩き台にしたキャラクタービジネスがどれほど儲かるかを実証してしまった時、世の中に大きな誤解が生まれてしまった。ギャルゲーに求められるのは「ゲームとしての面白さ」よりも「商品としての展開力」になってしまったのです。キャラクター性の徹底的な強化と追及が「萌え」という概念を生み出し、ギャルゲーは一般性を排除して「萌え」という特殊な要素に特化させて行った。しかし、他者の理解を求めない内向きの進化は、ゲームジャンルとしての進化を止めてしまったのです。デザインと大手ブランドだけが賛美され、小手先の過激なテーマに走り…エスカレートする苛烈な萌えに、年とともについて行けなくなって退役していくギャルゲーゲーマー達…ギャルゲー市場の縮小が止まらないのは、至極当然の理なのです。
ギャルゲーの現状は大変厳しいものです。しかし、私はギャルゲーの未来を決して悲観していません。なぜなら、これほどまでに悪い部分が出尽くしたジャンルは他にはないからです。現状を憂いているのは私だけではない。この閉塞的な現状を打破しようという動きが、志有るクリエータ達の間で広がっています。しかし、それだけではまだ足りない。幕末に吉田松陰が草莽崛起論に達したように、この現状を変えられるのは在野の士であるユーザーの一人一人の力が必要なのです。ユーザーの一人一人が常に高い目的意識を持って作品を吟味し、悪いところがあれば率直に批判し、新しい潮流の芽を逃さず守り育てて行く… 作り手と遊び手がお互いの意識と関係を見直すこと、まずはそこから始める事が、ギャルゲーの未来につながっていくのではないでしょうか?
(終)
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