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ここに興味深いデータがあります。ファミコンは国内で約2000万、スーパーファミコンは国内約1800万台、プレイステーションは国内約1600万台…というように、着実に時代の支配者だった標準ハードの国内市場は縮小を続けています。市場は縮小していく一方なのに、ハードの性能は加速度的に向上し、それとともにソフトの開発費も高騰の一途を辿っている。それなのに、なぜゲームがビジネスとして成立しているのでしょう?
その答えは2つあります。1つは世界進出によるマーケットの拡大戦略、もうひとつは、メディアミックスによるゲーム外産業の活用です。ゲームが世界を相手にすることによって引き起こされた弊害については、後日の論文で考察することにして、今回はメディアミックスの実態について考えてみたいと思います。
メディアミックスという言葉が生まれたのは、PCエンジンROM2やメガCDなどのように、ソフトの媒体にCD-ROMメディアが使用されるようになった頃でした。巨大な容量を生かすために導入されたのが、声優によるキャラクターボイスであり、そこから自然発生したのが「ゲームのおまけ」としてのドラマCDでした。そして、その「おまけ」を圧倒的な物量でキャラクタービジネスとして成立させてしまったのが、これまで何度もこのコラムで取り上げてきた「コナミ商法」でした。
この事業展開には功罪の両面があるわけですが、この時点ではまだ「ゲームが先にありき」という考え方が根底にありました。「ときメモ1」しかり「TLS」しかり「サクラ大戦」しかり…まずゲームとして面白い事が前提条件であり、メディアミックスの展開は「サービス」的な意味合いが強かったわけです。しかし、その様相を一変させたのが、いわゆる「センチメンタルグラフィティ・ショック」でした。
「センチメンタルグラフィティ」は、まずディープなギャルゲーマニア専門誌に絞って原画師の甲斐智久氏の流麗なキャラクターデザインを公開して、読者に強烈なインパクトを植えつけた。そして、声優の公開オーディションで話題を作り、全キャラのシングルCDなど関連グッズを売りまくり、ゲーム各誌でプロデューサーが大ホラを吹きまくり、何度も発売日延期を繰り返して予約数を集めまくり…人気絶頂のまま遂に迎えたゲーム本編の発売日…だが、そこに待っていたのはかつてない惨劇でした。
実際に発売されてみたゲームを観て、ファンたちの期待は完膚なきまでに打ち砕かれてしまった。原画と全く似てない画面上のキャラと、「暗黒太極拳」「死霊の盆踊り」とまで形容されたオープニングムービー。設計した人間のセンスを疑いたくなるようなインターフェースと、穴だらけのゲームシステム…その悪評は、まだ2chもなくてインターネットの普及率も低いあの時代にもかかわらず、瞬く間に千里を奔ることになった。その上、大量の予約に気を良くしたNECインターチャネルとセガが、後先考えずに増産して事実上の「売り逃げ」を行ったため、ショップ側は「発売後1ヶ月で新品980円」という前代未聞の叩き売りしてでも処分しなければならなかった。中古価格は5円〜280円まで下落し、もはや産業廃棄物扱いとまで呼ばれる事に…この1件でセガはショップから多大な反感を買ってしまい、これがサターン戦線の敗北の決定打になり、セガは天下獲りを目前にしながら転落への道を再び歩む事になるのです…そして、後に「センチ商法」としてギャルゲー業界を瞬く間に覆い尽くしたこの手法は、その程度の差こそあれ、ほぼ全てのギャルゲーにおいて現在に至るまで続いているのです。
メディアミックスとは、最早「おまけ」ではなくプロモーションに必要不可欠な要素であり、「後付のプラスアルファ」ではなく最初から利益の一部として当て込んだ戦略商品と化しています。ゲームで本数が捌けないなら、少数でも強力な購買力を持つファンを”信者”化して、多機種移植や大量のグッズでゲーム本編の発売前から囲い込んで、何度でも甘い蜜を吸い上げればいい。最悪の場合でも、ゲーム本編を発売して化けの皮が剥がれてしまっても、発売前にグッズを売ってしまえばそこまでの利益は確保できる。いや、市場規模としては既に「ゲームの方がおまけ」と言われてもしょうがないくらいです。
今では、ソフトパブリッシャーにコネクションを持たないブランドや、発売前にプロモーションを行えないブランドは、陽の目を見ることさえできず世間に名も知られぬまま消え去り、メディア展開の前提条件がなければ企画すら通せない、そんな本末転倒状態で「ゲームとしての面白さ」を追求した作品がこのジャンルから生まれるわけがない! 疲弊しきったファン層の購買力と、萌えの奔流で曇ってしまった眼…ギャルゲーに未来(あした)はあるのだろうか
次週、「終論:ギャルゲーに未来(あした)はあるのか?」へ続く
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