■【News Headline】 | ||||||||
■【mini Review】 | ||||||||
| ||||||||
■【COLUMN】 | ||||||||
 【北朝鮮、日本人拉致事件安否リストを公開】 |
9月17日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の(キムジョンイル)総書記と日本の小泉首相との首脳会談が行われ、焦点であった日本人拉致疑惑については、金総書記が拉致安否リストを公開し、拉致事件は特殊機関の一部による国家犯罪だったと認め謝罪した。これを受けて首相は日朝国交正常化交渉の再開を決断、合意事項を盛り込んだ日朝平壌宣言を発表した。
「あの北朝鮮が謝罪するとは?!」拉致疑惑、核兵器開発疑惑、不審船疑惑、テポドンミサイル発射実験…長年、北朝鮮の脅威に曝されてきた日本人にとって、こんな日がまさか来ようとは夢にも思いませんでした。安否リストは「4人生存を確認、6人死亡、1人不明」というあまりにも衝撃的な内容ではあったが、その日のうちは被害者・遺族を気遣いつつも小泉首相の外交成果を賞賛する論調が大多数だったが、翌日になって事態は俄かに暗転した。 在日朝鮮人に対するヒステリックかつ不穏な空気が流れ始めた。在日本朝鮮人学校では、嫌がらせの電話が相次ぎ、生徒の安全確保のため民族衣装「チマ・チョゴリ」以外で通学したり集団登下校するよう指導。在日朝鮮人3世のWBC世界スーパーフライ級王者徳山昌守選手のオフィシャルホームページ内にある掲示板が荒らし行為により閉鎖されるなどの実害も発生した。 「何か納得できない」そんな世論のストレスが爆発したのは、外務省によって隠蔽された「非公式リスト」の存在が明らかになった時だった。拉致され亡くなったとされる8人の死亡年月日を外務省が二日間も隠していたことが十九日、判明した。日朝首脳会談で北朝鮮から提示を受けながら「非公式な資料」として伏せ続けた外務省。資料をいつ目にしたかさえ「覚えていない」という小泉純一郎首相。家族に死を告知した福田康夫官房長官、首脳会談に同席した安倍晋三副長官は資料の存在自体を「知らなかった」と言い切った。外務省の隠ぺい体質が政府対応の混乱を招き、家族の不信感を増幅させた。家族の気持ちを逆なでするような外務省の独断専行に対して、被害者の家族らは怒りの声を次々と上げた。 ------------------------------
この1週間、めまぐるしく飛び交う情報を整理しながら、私はイロイロな事を考えていました。拉致が行われた目的、事件当時の国際情勢、日本政府の北朝鮮外交の歴史、様々立場の人々の主張・分析・意見…そして、北朝鮮が謝罪してまで引き出そうとしている打算と思惑… 私のように平和な時代をのうのうと育った人間が”遺族の気持ちになって物事を考える”なんてできないかも知れません。その代わり、冷静になって情報を分析し、私見に囚われず、様々な角度からこの問題に対してアプローチしていきたいと思いますが、今はまだ情報の判断材料が不足しています。そして、私自身がまだ冷静にはなれません。わずか数時間の編集時間で書くことはできないので、継続問題として記事を扱っていきたいと思います。 アメリカのイラク先制攻撃の準備が着々と進められる中、イスラエルではパレスチナ議長府への攻撃が今この記事を書いている最中に始まりました。このまま第2次湾岸戦争に突入するれば、日本はアメリカの同盟国として100億ドルにものぼる戦費の負担及び自衛隊の派遣という重大な決断を迫られることになるだろう。激動する世界の中で、一体何が正しいくて正しくないのか?…いや、正しさは相対的なものでしかない。”自分が何者であるか”それすら自覚していない日本人がいかに多いことか… 少なくとも、今回のような外務省の独断と政府の対応のお粗末さだけは、誰の目から見ても明らかです。嗚呼、情けなや… |
書籍 【反米という作法】 小林よしのり・西部邁 / 幻冬舎 |
珍しく総合書店をうろついていると、強烈なタイトルの本を見つけて思わず足を止めました。本書は「新ゴーマニズム宣言」の小林よしのり氏と、”最後の知識人”西部邁氏の対論本です。人物が人物だけに、時期が時期だけに、タイトルがタイトルだけに、イメージ先行で誤解されやすいし、この難解なテーマを理解するには高度な読解力を必要とするため、誤読・曲解される危険性が非常に高い。しかし、アメリカのイラク先制攻撃が迫る今この時期だからこそ、読んでおかねばならない1冊だと思います。
「反米という作法」というタイトルからは「反米主義」を連想してしまいがちですが、それは本書の主旨ではありません。要約すると「反米を口にするなら、それなりの覚悟と知識が必要だ」という内容であり、対テロ包囲網への日本の賛同する傍ら「反米」のポーズを気取っている知識人やマスコミや政治屋どもの「底の浅さ」を糾弾しています。今の日本には思想としての右翼も左翼も存在しません。外圧の風向きで主張をあっさり覆す根無し草保守右翼と、代案もなく非戦の念仏を唱える考えなし腰抜け心情左翼… 慎ましく日常を送っている一般市民の方がよっほど健全なバランス感覚を持っていると言っても過言ではない。 人間にとって最も恥ずべきことは、自分の頭で考えることをやめてしまう事だと思います。このような書物が出版されねばならないほど思想腐敗が進んでしまった、ということはとても情けなくて悲しむべきことである。だが同時に、このような書物が出版され得たということ、それを禁止する法律がまだ存在しないということは、ともに喜ぶべきである。 |
小説 【春の魔術】 田中芳樹 / 講談社 |
夏の魔術、秋の魔術、冬の魔術…と続いてきた「田中芳樹が最も愛するコンビ(徳間書店版「夏の魔術」のコピー)」この長編ゴシックホラーシリーズですが、ついに「春の魔術」でフィナーレを迎えました! あの夏、すべてが始まった奇怪な洋館「黄昏荘園」を再び舞台にして、決死の怪異劇の幕が開ける。「窓辺には夜の歌」では敵役だった小田切亜弓との奇妙な共闘。そして、いつどんな時も変わることのない来夢の耕平に対する信頼という絆。彼らは長い悪夢を終わらせることができるのだろうか?
とりあえず「春」でひとまず完結、ということですが、これ以後の構想もあるようなので、いつかまたこの気持ちいのいい二人、来夢と耕平に再会できる日を、気長に楽しみにして待ちたいと思います。田中芳樹作品唯一の”壮大じゃない”世界。その不思議な魅力を、どうぞご堪能あれ! |
漫画 【PAPUWA(1)】 柴田亜美 / エニックス |
月刊少年ガンガン誌上で連載されていた「南国少年パプワくん」の続編、それが「PAPUWA」です。約7年ぶりの復活となる今作は、前作と完全に互換性のある内容なので、昔の連載を知らない人にとっては何が何やらサッパリ分かりません。必ず前作(全7巻)を読んでから今作を読むようにしましょう(私もすっかり忘却の彼方だったので、読み直しました)。前作→新作と連続して読んでも全く違和感が無いのは、ある意味貴重だと思います(7年前も今も相変わらず”修羅場漫画家”なんですけどね…)
単行本1巻の作者近影写真の背景は、なぜか鳥取砂丘。あ、そういえば以前週刊ファミ通の「ドキバグ」企画で鳥取砂丘+水木しげるロードに行った事があったのを思い出しました(てっきりチップス小沢の趣味で行っただけかと思っていたけど、ちゃんと別の仕事に役立ててしまうとは、なんとも逞しいですなぁ)。 |
雑誌 【週刊ファミ通 10月4日号(vol.720)】エンターブレイン |
ゲーム雑誌は東京ゲームショーで話題で持ちきりですが、関西在住の私には何の関係もない話です。高い交通費を払い、試遊台に長時間並び、あまつさえ入場料を取るなんて…(そもそも、幕張メッセで開催するくせに、ビックサイトを模した広告ポスターなんか使うんじゃねぇ!(しかも幕張は千葉県だぞ!)) 今回から年1回の開催になったのだが、なんかぱっとしませんねぇ…クリエータディスカッションの演目を見てみても、「あれまあ、まだあの人は業界で偉そうな顔をしてるのかい?これじゃあ新しいものも出るに出んわなぁ…」と溜息ばかり。各社とも年末商戦を睨んでビックタイトルを多数出展していますが、展示リストを眺めた限りでは「だから何?」というのが私の感想です。売れるだろうけど、だけどそれだけ。中小メーカーはブースを構えることすらできないなんて、これのどこがゲームショーなんでしょうか?これからも予定調和の市場縮小は続いていくことでしょう…(ふぅ)
Xboxで広井王子の新プロジェクト始動!…ああ、読めば読むほど胡散臭い内容です。インタビューがゲーム内容ではなく王子様の理想話になっていて肝心のゲームが見えてこないのも問題ですが、知能情報工学科卒で日本語翻訳技術研究経験者でもある私に言わせれば、王子様の人工知能と言語認識は甘すぎます。あんなものを「AIコミュニケーション」などと呼ぶのは、恥をかくだけなので止めた方がいいと思います。※「様」は敬称ではなく皮肉を込めた湾曲表現です。 最後に、今週のクロスレビューについて。DC版の「君が望む永遠」が31点を獲得。ギャルゲーに冷淡なファミ通にしては、ほぼ満点と言っても過言ではない高得点です。でも、コメントが点数の根拠に結びつかないのが釈然としない。こんな時に限って、ギャルゲー番記者のキッシー嵐山さんの担当週じゃないし…1軍半の方が書いたレビューと点数を信用しろというのは無理があるのではなかろうか? |
 【レビュー論「好きだから書くのか、書くから好きなのか」】 |
最近になってGM研のレビューを読み始めた方も増え始めているようなので、改めてGM研のレビュースタンスについて説明しておきましょう。GM研レビューの理念を簡潔にまとめると、『採点という観点ではなく方法論と全体論によって作品の本質を見極め、好き嫌いとは一線を画した、妥協も偏りも無く純粋に「作品を紹介する」ことにより、読者に良質な作品との出会いの機会を提供する』といったところでしょうか?
どうやら一部には「甘口レビュー」と曲解されてしまうこともあるようです。「レビューを書きたい」という動機が「作品に対する敬意」による場合がほとんどなので、好意的な論調で書かれたレビューの割合が多いのは事実です。そもそも、レビュー対象を選考する段階で「良作」を選り好みしているのだから、素材の段階で味付けの方向性も決まってしまうわけです(甘くて美味しいハヤシライスを無理やり激辛にして素材の特質を損なうような無粋な真似はするべきではないと思う) 唯一例外的に、ゲームレビューでは時折「憤慨レビュー」というものを書くことがあります。ゲームレビューは作品取材に恐ろしく時間がかかります。短いものでも10時間、長いものでは100時間以上かかります。私といえども外れを引くこともありますが、外れは外れで仕方が無い。その時はレビューどころか話題にすらしません。でも、「どうしてダメなのか」を語るに値する作品については、正直に「いかにダメなのか」徹底的に書きます。それは「良い・悪い」の次元の問題ではなく、好きだからこそ言わなくてはならない「諫言」です。 先日書いたばかりの「BITTERSWEET FOOLS」(DC版)のレビューでは、久しぶりに辛口のレビューになりました。でも、それは決して「面白くなかった」という意味ではなく、「とても残念だった」からなのです。せっかく素材(シナリオ・キャラクター・雰囲気)が一流なのに、料理人の腕(ゲームデザイン)が悪いとここまでメシ(ゲーム)が不味くなるとは… (単純な批判ではなく「惜しい」という気持ちを汲み取っていただけば幸いです) 私が書くべきことは「どんな人にとって・どのように面白いのか、という雰囲気を伝える」その1点に尽きます。私は商業誌のレビュアーのように作品に点数をつけたりはしません。点数を付けることで「基準」に縛られたくはないし、基準の普遍性を強化するために、義務感だけで好きでもない作品を紹介したいとも思わない。 でも、これは商業誌のレビュアーを否定するものではありません。レビューを書いてお金を貰うプロは、ちゃんと点数に責任を取れる文章を書かねばならないし、その発言力の大きさに比例して責任も増大していきます。それはプロとして当然のことです(でも、現実にそんな当たり前のことですら守られていませんけどね)。私がGM研でやっていることは仕事ではありません。折角自由な立場で物が言えるのに、わざわざ自分で表現の自由の幅を狭めてしまうなんて、どう考えてもおかしな話ではなかろうか? 「好きだから書くのか、書くから好きなのか」 その答えは、まだ未熟者の私には分かりません。たとえそれが出る事のない答えだとしても、追い求めることはやめないでしょう。 |
文責:GM研編集部編集長 gonta