第七回GM研所長講演
レビュー論
2001年2月から活動を再開したGM研の批評活動の中核をなす「月刊GM研」は、今月号で無事創刊半周年を迎えることができました。これもひとえに、読者様の励ましの御蔭です。今後もより一層のご支援を賜りますようお願い致します。また、その期待に見合ったクオリティの文章と話題を提供するために精進を続けることをお約束いたします。
無宣伝というスタイルを貫いてきたGM研ですが、今その方針の大転換期に差し掛かっています。半年間に渡って蓄積したレビューが有識者の目に止まり、思い掛けないリンクと親交が生まれました。また、同人誌活動の開始により、憧れの漫画家先生とも知己を得ることが出来、それどころか週刊連載の近況欄でGM研の名が全国に知れ渡ることに…
我ながら、あまりにも速いスピードで変化を始めたGM研に驚いています。活動の幅は確かに広がりましたし、読者数も増えましたが、その分、仕事量も期待もプレシャーも倍増しています。今こそ、今だからこそ、もう一度原点に立ち戻り、GM研の中核をなす「レビュー」というもの、自分自身のスタイルを見つめ直してみたいと思います。
届かない批評家達の言葉
私には敬愛するレビュアーがいます。週刊ファミ通の元副編集長:渡辺美紀さんです。歴代最多本数のクロスレビューを担当し、この世に出るすべてのゲームを知っていたすごい女性です。寿退社してからもゲーマー主婦としてライターを続けており、たまにファミ通でも原稿を書いていますし、ファミ通.comでもコラム連載を続けています。文章の技巧を凝らすのではなく、そのゲームの魅力をいかにして伝えるか。シリーズのファンを納得させ、初心者にも振り返ってもらいたい。そんな心意気がひしひしと伝わってくる渡辺さんのレビューは、私にとって永遠の目標です。
しかし、今のファミ通編集者にはそれだけ魅力のあるレビューを書ける人はいません。評価基準がシステム化されてしまったクロスレビューでは、編集者の個性を発揮することはできません。また、大手メーカーの訴訟報復を恐れて骨抜きにされた馴れ合い記事と批評。もう誰も振り向かなくなってしまった。届かない批評家達の言葉…それはとても残念なことです。
漫画もゲームも限りなく個人の嗜好物です。他人が押し付けたりするべきではないし、名作だから偉いとか、お金が掛かっているから面白いというものではありません。問題なのは、読者に届く声で語ることのできる媒体が存在しないことにあります。それは商業誌には絶対できないことなのです。しかし、自由な表現媒体であるはずの批評系雑誌やネット批評は視野が狭く、上げ足を取るばかり… その歎きから私はペンを取りました。
作品を深く理解し、深く愛し、そしてその気持ちを伝えようとする心。何処かの誰かの未来のために、ONE&ONLYになれる文章を書きたい。それが私の夢なのです。
好きになることから始めよう
私が書くレビューは、ほとんど「起・承・結」という3段構成になっています。「紹介・分析・結論」と置き換えてもいいでしょう。段落のタイトルを考えてから文章を膨らましていくスタイルで書いています。1本のレビューの執筆に掛ける時間は平均2時間くらいですが、その背後には膨大な取材時間とエネルギーが費やされています。書き上げた後には魂を抜かれたように、しばらく何もできなくなってしまうことも少なくありません。
レビューする作品は大抵の場合、執筆直前まで未定です。常日頃からレビューを念頭において作品に接しているわけではありません。そんなことを意識しなくても、私は空気を吸うように自然体でゲームや漫画を楽しんでいます。むしろ、取り上げたい作品が多すぎて、選ぶのに困ってしまいます。それに、私は作品をそれ単体では評価しない主義です。同一作家の他作品との比較、同業他社製品との比較、社会に与えたインパクト、コストパフォーマンス、などなど… 総合的に判断して、他人に胸を張って薦めることのできるものしか取り上げません。(もしくは、よほど失望させられた場合)
褒めることの難しさ
何かを褒めるというのは案外難しいものです。欠点というものは箇条書きにしていくらでも書き並べることができますが、長所というものはどこか漠然としていて掴み所の無いものです。自分の中の基準を下回っていれば欠点。では、基準を上回っていたら長所なのでしょうか? 必ずしもそうとは言い切れません。嫌いになるのには理由がありますが、好きになるのには理由はないからです。理屈ではありません。それは恋と同じです。
その「好き」という気持ちに理由をつける。それが私のレビューの本質です。「理屈じゃないのに理由を付ける」。大いに矛盾しているこの命題に対して、私はひとつの信念を持って臨んでいます。それは「主観を伝えるために客観に徹する」という事です。文章を書いているときの私は、私であって私ではありません。自分の本当の言葉を伝えるために、「自分を客観視できる自分」に成り切ります。(2重人格という意味ではありませんよ)
私は自分で書いたレビューを後で見直す度に、顔が真っ赤になってしまいます。よくもこんなにも馬鹿正直に自分の気持ちを書けたもんだなぁ…と、他人事のように感心してしまいます。でも、それが他人ではなく自分が書いたものだと思い出したとき、途端に恥ずかしくなってしまいます。でも、そのくらいで丁度いいと思っています。そこまでやらないと「本当の言葉」というものは伝わらないのですから。
感想でも批評でもなく
私は自分のことを批評家であるとは思っていません。しかし、いち消費者とも言いがたい存在だと思います。批評家にしては感情移入が激しすぎるし、いち消費者にしては冷静すぎる。抜群に発達した経済感覚を持ちながら、時には衝動に駆られて他人があきれるような買い物もする。読んでる方が恥ずかしくなるような大絶賛を書いたかと思えば、辛辣冷静な分析で急所を突く。父のように厳しく、母のように優しい。…まことに矛盾に満ちた存在、それがレビュアーとしての私のポジションです。
私のレビューを「浅い」と感じる方もいるとは思いますが、それは承知の上で書いています。私が書いているのは批評でも攻略でも感想文でもありません。レビューという「紹介状」なのです。私の感性を前面に押し出すことで、本当の言葉を伝えるための。
レビューという制約の中で
レビューは感想でも批評でもありません。「作品を誰かに紹介するための文章」なのです。ゆえに、非常に多くの制約が存在します。過剰なネタバレは慎まなければなりません。推理小説の書評に犯人の名前やトリックが書かれていたら、興醒めもいいところです。また、初心者に対する最低限の説明事項も必ず必要になります。私が書くレビューがほとんど「○○とは?」から始まっているのはそのためです。
作品の世界観・キャラクター・システム・グラフィック・音楽・開発の歴史までをも含めて、全体像を凝縮して伝える。それがレビューアーとしての最大の歓びであり、最低限の誇りなのです。好きという気持ちを伝えること。それは恥ずかしけれど、素晴らしい事です。人は常に何かに憧れ、新しい何かに好奇心を抱き、見果てぬ夢を見てきました。願うことが叶うこと。それは人類の歴史が証明しています。
世の中にはまだ私が知らない素晴らしい作品がたくさんあります。その作品の魅力の1%でもいいから誰かと分かち合いたい。だから私は書き続けます。私の夢を実現するその日まで…